
故岩本さんは明治45年(1912年)のお生まれで満96歳で天国に召されました。晩年は奥様の看護、介護を10年以上に渡り、静岡でされたそうです。雨の日も風の日も、車で15分くらいの距離にある病院に一日も休まず通われたそうです。そして奥様が亡くなられて間もなく息子さんに「故郷の三次に帰りたい」と言われたそうです。当然、家族の方は90歳近い岩本さんに反対されたそうです。いくら足腰が元気だと言え、一人暮らしはこたえます。食事、洗濯、いろいろ大変ですからねー。
ところが岩本さんは、そんな家族の反対を押し切り、単身、三次に帰って来られました。三次では近所の人達、昔からの友人が一生懸命、協力応援されたそうです。元来、元気な岩本さんですから、近所の催し物などには進んで参加されたそうです。その中でも一番の楽しみは、三高グランドに行って後輩達を応援、指導する事だったそうです。後輩といえ70歳の年の差があります。普通なら外野の片隅か監督室で見ておられるのでしょうが、そこは岩本さん怪物です。ちょうど87回大会の準優勝の時のメンバーの前でスイングを教えておられたのを見た時はビックリしました。選手達の前で92歳の岩本さんがフルスイングされたんですが、私の耳にブルンと空気を切る音がしました。勘違いかと思いましたが、何度聞いてもブルン、ブルンです。やはりプロのホームラン王は違います。
瀬戸内高校に練習試合に行った時も、相手もプロ野球出身の後原監督です。岩本さんには最高のモテナシをされ、ネット裏の特別室で観戦されたんですが、保護者の方に「岩本さんがネット裏で観戦されてるんで、何かあったらまずいんで、マスターも一緒に観戦してや」と言われ行きました所、近くまで行くと大きな声にビックリしました、そこには岩本さんと三高の控え捕手が二人で観戦してました。両校の一つ一つのプレーをその控え捕手に説明しておられるんです。すごく大きな声で「あそこは、こうしなさい。」「ここはボールから、はいらないと、やられてしまうよ。それ見いや打たれたろー」身振り手振りで解説されてました。控え捕手はその声に圧倒されただ「はい」「はい」ばかり繰り返してましたけど。10個言われた内の2個でも3個でも覚えて帰ればいいなーと思いました。
そして第87回大会は岩本さん始め、みなさんの指導、応援の力で決勝に進みました。
決勝の日、市民球場の三塁側は三次高校ファンで超満員になります。内野自由席まで溢れた人で一杯でした。そんな内野席を見上げると一番見やすい席に岩本さんが座っておられ、周りはマスコミの方々が囲んでおられました。声を張り上げて応援されてました。
しかし健闘及ばず準優勝(それでも最高ですが)しました。
そして、その頃から岩本さんに会える機会が無くなりました。風の噂で入院されてる事をしり、いつまでもお元気でいて欲しいと思ってたんですが、3年の入院後、今月26日帰らぬ人となられました。
息子さんが親族を代表して挨拶されました「三次の暖かい人達に囲まれ、父は幸せだったと思います」と、私たちこそ大変お世話になりました。
(岩本さん球暦)
1931年 甲子園出場
1938年 明治大学から南海に入団 その後、松竹ロビンスに移籍。2リーグ制施行後、セリーグ第1号ホームラン。 一試合18累打(現在でもプロ野球記録)。一試合4ホームラン(プロ野球記録)1950年 トリプルスリー達成(3割1分9厘、39本塁打、34盗塁)38歳。その後、東映(現在の日本ハムかな)で選手兼監督。引退後、近鉄監督(現在のオリックス)。 その他、頭部死球のあと、直ぐに一塁まで走ったとか、あの喝の張本さんが岩本さんの頭部死球後の頭蓋骨骨折のレントゲン写真を見たとか、盗塁でも足から滑らず頭からボールめがけてて突進したとか、武勇伝は数知れず。
こういう素晴らしい人に出会えた事に心から感謝します。 (合掌)
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